なかなか進まぬこと
今日は、とりあえずやるべき数学のノルマを果たせたので良かった。
他の分野のことだとよくわかりませんが、数学だと、日々の進捗がそこまで多くありません。本の1節が終わったとか、時には、演習問題1題だけしか終わらなかったということもあります。(僕の数学の力がないだけかもしれませんが)
大学1年生くらいの頃はなかなか本のページ数が進まなくて、もやもやした気持ちになっていましたが、最近だと耐性が付いたのかそこまで焦らなくなりました。
もちろん、ゼミの担当分がわからないでいるときはとってもヒヤヒヤしますがね。
その時は、ここはわからなかったのですが、こうこうこうやってやろうとはしたのですが...と何とかしようとしたアピールをすると、助けてくれる可能性が上がります。(絶対助けてくれるわけではない)
こういう感じで日々、数学の勉強ないし研究をしているわけですが、工学部とかその他の学部の人たちからすると、全然勉強してないねと言われることが多々あります。
そりゃぁ、ほかの人たちは学部4年生の段階で研究して、卒論という形ではありますが、きちんと論文を書いているわけですから、いまだに本を読んでいる数学科生はたるんでいるように見えてしまうのでしょう。
早いうちから研究に携われるのはうらやましいですが、個人的には数学科の方が性に合っているような気がします。
元々、はやぶさのように早くはなく、地方ローカル線の1時間に1本くらいしかない電車のような速さなので、周りがどんどん進んでいくような学部だと置いていかれて放置プレイになりそうです。
しかしまぁ、学部時代に徹夜して、研究して、何とか卒業したぞ、という経験ができるのはとてもうらやましい...
数学やっていると、一人悶々と進めてしまいがちなので、人脈を増やしにくくなってしまいます。
ゆっくり進んでいる分、人の目につくといいのですが、そう上手くは世界は周ってくれません。
とりあえず、フォン・ノイマン環のdouble commutant theoremの証明で、たぶんあまり見ない証明方法が書いてある文献があったのですが、そこで分からない部分で詰まってしまったところをゆっくり考えてみようと思います。
明日もまた、にらめっこかなぁ... 気になるあの娘とにらめっこがしたいものです。
初志貫徹とはなんとやら
一週間の毎日更新が達成されました!
意外となんとかできるものですね。アクセス数が1とかあると、とっても嬉しくなっちゃいます。見ず知らずの誰かが読んでくれているのだ、というだけでうれしい。
数学の論文とかもそうなのでしょうが、やはり、自分の考えを第三者に公開するというのは、人間の基本的な欲求を満たしてくれるような気がします。
そんなこんなで、目標を達成できたわけですが、中学・高校では、目標達成した人をほめたたえる際にほとんど「初志貫徹だ」と言っていたのを思い出しました。(僕は言われたことがありませんが。)
初めの目標を達成することってそんなに偉いことなのでしょうか?
それだと、夢をかなえられなかったらもう駄目なんだ、みたいな考え方が出てきそうでなんだか怖いですね。
というのも、高校の時、1学年上の先輩が、数学大好きな人で、その人が東大に通ったときの彼の担任の先生がよく言っていたんですよね。
「あいつは、中3のころから大学の統計の本を読んでいたぞ。」
「数学が好きだというから、大学で数学を学ぶために頑張って勉強して、目標達成した。」
などなど。
今となっては、数学の本って統計かい!って感じですけれど(アティマク読んでるとかなら威張れるとは思うけど、どんな統計の本かにもよります。)当時はチクチク言葉でしたね。
僕は、残念なことに一人の数学教師を除いて、あまり好かれていなかったのでそういう言葉をかけられたのかもしれません。
とある授業の初めに、「このクラスに数学科を目指している人がいるらしいが、数学科には行かない方がいい」と進路希望調査で明らかに学年で僕しかいないというのが公表されてからいわれたりもしましたね。
確かに、初めに高い目標を掲げて、それを達成するのはすごいと思います。
それでも、それができる人なんて片手で数えられるくらいですよ。
だから偉いのだと思うのですが、多感な中高生に対して、高い目標を達成したらえらいぞというだけは余りにも残酷ではないでしょうか。
悲しいことに、ほとんどのことは才能のあるなしで決まってしまいますし、勉強もその範疇を逃れられないと思います。
社会に出たら、自分のやりたいことなんてほとんどできないで終わってしまうような気もします。
だからこそ、高い目標を掲げて達成することを至上命題とするのではなく、自分の能力の把握に合わせて、うまく目標を変えることが大切で、それはなにも負け犬のやることではないというのを示していかないといけないと思うのです。
初めにケースを手にするのではなく、どんな型にもはまれるような心構えが必要なのです。
初めの目標からの変遷をたどるのも、面白そうではないですか?
アウトバーンのような速さで人生を終えるよりも、田舎のくねくね道を通った方が、生きがいというものは見つけやすいかもしれません。
この道ダメならどうすれば...
今日は大学に行き、院生室でくつろいでいました。
結構べたべたしてたので、めちゃくちゃ拭きました。あんなに拭いたのは、小学生の頃の給食で各児童の机を拭いたとき以来ですね。
そのあとは、ゼミに参加したり、教授との面談的なことをやったりしていました。
学部の時とは違って、ゼミのスピードが速いというか、仮定していいことが増えたような気がします。
4年生の時のゼミでは、何から何まで全部(位相空間の連結性とか、関数解析のかなり基本的な事実の証明まで)黒板で証明していたものですから、当時ゼミを見てくださった先輩からは、進みが遅いなぁとゼミの回数が増えたりしたものです。
1から10まで説明するのは案外簡単なのかもしれませんね。
短い時間で5から8くらいまでを説明するのが、ちょうどいいというかそういうのが学問での研究発表な気がします。
全部話すんじゃあ、考える余地がなくなってしまう、だから新しいものが引き出せなくなる。そういった落としどころのようなものを作って発表できるようになりたいものです。
そのような発表ができなかった数年前までは(今も大してうまくできませんが)、アカデミックの世界に残れなかったら、もう居場所はないんだとか思ってすごく悲観的になっていましたね。
なんだか、偏屈な考え方をしていました。
研究者じゃなきゃ馬鹿なんだとか、社会に不要な人間なんだとか。
すごく過激派でしたね(笑)。
今はもう、なれたらいいけど、もしだめだとしても別の道があるさと思えるようになってきました。
というよりも、そんなに根詰めることにつかれたのもあるのでしょうけれど。
ただ単に自分の気になることをやっていって、その先どうなるか、それくらいにとらえています。
他の道が完全に整備されているわけでもないのですがね。結局、アカデミックな世界の方に依っていくことにはなるのでしょう。
駅から自宅への帰り道で、目の前にカップルが同じ方向に歩いているときに、一人孤独に歩いているときの悔しさ、情けなさのようなものは数学に関しては薄れてきたようです。
あの道は一本道だったけど、数学はいろいろと脇道にそれて楽しめるようです。
分からないから示すのだ
今日は、久しぶりにスーツを着ました。
手先が不器用なもので、ボタンを閉めるのに一苦労でした。特に、襟についている小さいボタンなんか、地獄のように付けづらいです。こりゃ、マジシャンにはなれないな。
スーツを着るときは毎回、奥さんが欲しいなと思っちゃいます。
ネクタイのずれとか、ジャケットのゆがみとかを直してくれるのは憧れです。
そんな中、新生活が始まり、結構慣れてきました。
一番の変化は、朝にちゃんと起きれるようになったことですね。
もう学部生ではなく院生なので、体の調子を整えつつ数学をしていくようにしていかなければなりません。
学部生のころは体を壊しても数学をしていいんじゃないか?と思ったりしたものですが、院生になると、もっと過酷な数学をするわけですから、肉体的な健康は完璧にしとかないと太刀打ちできません。
先輩もランニングをしたりしているので、僕も始めようかな...?
色々と模索をしながら数学をしているのですが、一つ気になることがありました。
家で数学をしているとき、大体独り言を言うのですが、証明をするときに、これはわからないので示します、って言ってたんですよね(僕が)。
一回、ゼミかなんかでこれを言ってしまって、教授から厳しめの言葉をいただいたときに、いや、これを示すんですよぉ...と言って変な空気になってからは使ってないと思ったんですけどね。
しかしながら、この独り言は生きていく上で必要だなぁって感じます。
正直なところ、この世界のことなんて何も知らないわけですから、理論的には出会うものすべてがわからないんですよね。
でも、そのままにしとくのでは何もできないので、とりあえず向き合ってみる。
この向き合うという行動のために「わからないから示します」というスタンスはいいきっかけになるんじゃないかなと思います。
小・中・高と問題の典型例を身に付け、パターン問題は数分で解く、そうでない問題は部分点を取ればいいからここまでしかやらなくていいなどということをずーっとやってきていたので、「わからない」ということに非常に憶病になってしまっています。
これはやっぱりよくないことです。
パターン化されているものは素早く処理するのは当たり前なのですが、それさえすれば合格できるなどという(有名な有害ドラマ)ことがささやかれ続けているせいで、わからない→やばい!→どうしようもない... という思考になってしまい、「考える」が生まれてこない気がします。
高校数学とかですと、網羅系参考書(青チャートとか)をとりあえず暗記するまでやれば東大でも受かる!というのは学校でよく言われてました。(化学だと重要問題集とか。これなんか3周すれば、東大化学は楽勝といわれました。まぁ、僕は3割くらいでしたがね...不合格なのでなんとも...)こういうのが、大学や研究とかでの障害になっているんじゃないんだろうか?
パターン問題を身に付けすぎると「わからない」が恐怖につながってしまう可能性があると思います。実際、僕の応用力の無さもありますが、入試で分からない問題があったらそこから頭をひねって考えるということができず、ただただパニックになっていました。
共通テストとか私大の問題だと典型問題が多いからいいんですけどね、2次試験となると...
わからん!、知らん!→どうすっかな?→わからんけどやるかぁ...→まあこんなもんか
という体験をさせないと、これから身に付けていかないといけないとされる学力は身につかないんでしょうけどね。
日本は国民性から難しそうな気はしますが。
高校まで数学が好きで数学科に入った人で数学が嫌いになる一因としてはこのような真面目さ、恐怖があるんじゃないでしょうか?
分からないことは恥ずかしいことじゃないなどという前に、わからないものは考えるものだという習慣を身に付けさせる方が重要だとは思いますがね。(そうしないと、とりあえず聞いてその場だけ済ましてしまいがちになりそう)
ヒルベルト加群の例でベクトル束が急に出てきて微分幾何学をそこまで理解していない中でいろいろと調べたりしながら思いました。
さてと、ベクトル束と向き合うか。わからないから示さなきゃ。
ほっと一息桜見
今日は珍しく、花見をしてきました。
とても暑かったですね。もう桜どころじゃなかったかも...
結構、親子連れとかカップルが多かったので、疑似的にリアルを充実させていました。桜をみてきれいだなと思えるのは、やはり心の余裕がないとできないことだとつくづく感じます。
将来、奥さんや子供と桜を見ながら桜餅でも食べられたのなら、僕の人生は大成功でしょうな。
最近、別に好きなことを仕事にできなくても、いわゆる普通の家庭をもてるのなら、文句はなくなるんだろうなと思います。
仕事はとてもきついのでしょうけれどね。そこはもうトレードオフで。
ほっと一息つこうにも、体が疲弊しているものですから、どっと倒れこんでしまいます。
なかなか難しいなぁ。
余裕がないと何も楽しめません。数学も同じだと思いますね。
学部入試、院試と希望のところに入れなかったため、僕のプライドというものは何一つ残っていやしません。
そのおかげか、周りの人が進んでいても、何とかまあ別にいいかと思えるようになりました。(みんなの話していることはよくわからないときもありますがね)
まぁ、何とかなるだろう。そう思ってないと不安に押しつぶされます。
桜だって散るからこそ美しいのだから、脱力しないと楽しいことは生まれません。
ほっと一息つけるように精進します。
三日坊主も周期的に
三日目ともなると少し慣れてきました。三日坊主という言葉があるくらいですから、何事も3日間くらいをめどにやるとうまくいくのでしょうかね。
もうすぐ大学院の講義等々が始まるので、ぐーたらもできなくなってしまいます。
しかし、学校がないと、家から出ないただのおじさんになってしまうので、ちょうどよいところではありますね。
ここ数年の疑問なのですが、日々の生活において、言葉の種類というものが両手で数えられるくらいしかないのはなぜなのでしょうか?
数日前に、数人でお酒を飲む機会があったのですが、お店に行く途中の道でワイワイ話がなされているのですが、なんとなくどうでもいいなぁという感じになってしまい、かつ顔を合わせるのもなんだかなぁってずっと雲を見ていたんです。(いわゆる上の空状態)高校生くらいのときは話さないと気まずいという考えがよぎったのですが、こと最近に関しては、もうどうなってもいいよ...というスタンスになってしまいました。
やっぱり、言葉というものに向き合っていないからなのでしょうか?
とりあえず、相手を全肯定するという技術を身に付けてからは、相手への関心というものが薄れていってしまっている気がします。
悪いとこよりもいいところを見ようとなると、大体の人間は同じような感じになっちゃうんですよね。悪いところにこそ、その人の個性が生まれる。
一番いいのは、悪いところを受け入れられるほどの器を生成することでしょうか。
僕の場合だと、相手の悪いところを見るとなんだかおもしろくなっちゃうのでいいのかな?
こんなことをいうのも、またすぐに、数人での食事会的なことが行われるからなのです。
どんな感じでいようかな。無口でミステリアスな感じに思ってもらうのもいいなぁ。
ミステリアスと何も考えていないのは全然違いますがね(笑)。
ずーっと数学のことをやっていると、何か食べるときぐらいは無心でいたく思ってしまうものです。
そうでもしないと、脳みそがオーバーヒートしちゃいますよ。
その結果、あぁ、とか、うん、しか言わないツマラナイ人間になってしまうのですよね。
面白いと思われるのはいいことだと思うのですが、実際、そんなことができたら人生の6割は成功しているようなもんでしょう。
コミュ障、ボッチなどという言葉がありますが、ああいうのもアイデンティティですから、それをゲットしてる君は、困ることはないぞ(きっと)。
そんなこんなで、数学以外のことはただ何となくやってきている人間ですが、頑張っていこうと思います。
周期3の三日坊主は勤勉ですからね。
スピード勝負
毎日記事を書くっていうのに、時間がぎりぎりになってしまいました。
何事も思い立ったときにやればいいものをなかなか手を付けないのでこうなってしまう。
でもまあ、毎日長ったらしいものをかくのもできないし、疲れるだろうから今日はいいかな。
現代の社会は早ければ早いほどいいっていうのだから、太く短くいけばいいじゃない。
しかし、この文章はまるでちくわの様である。