とある数学徒のひとりごと

ゆるく, しかし粘り強い思考を求めて

三日坊主も周期的に

三日目ともなると少し慣れてきました。三日坊主という言葉があるくらいですから、何事も3日間くらいをめどにやるとうまくいくのでしょうかね。

もうすぐ大学院の講義等々が始まるので、ぐーたらもできなくなってしまいます。

しかし、学校がないと、家から出ないただのおじさんになってしまうので、ちょうどよいところではありますね。

ここ数年の疑問なのですが、日々の生活において、言葉の種類というものが両手で数えられるくらいしかないのはなぜなのでしょうか?

数日前に、数人でお酒を飲む機会があったのですが、お店に行く途中の道でワイワイ話がなされているのですが、なんとなくどうでもいいなぁという感じになってしまい、かつ顔を合わせるのもなんだかなぁってずっと雲を見ていたんです。(いわゆる上の空状態)高校生くらいのときは話さないと気まずいという考えがよぎったのですが、こと最近に関しては、もうどうなってもいいよ...というスタンスになってしまいました。

やっぱり、言葉というものに向き合っていないからなのでしょうか?

とりあえず、相手を全肯定するという技術を身に付けてからは、相手への関心というものが薄れていってしまっている気がします。

悪いとこよりもいいところを見ようとなると、大体の人間は同じような感じになっちゃうんですよね。悪いところにこそ、その人の個性が生まれる。

一番いいのは、悪いところを受け入れられるほどの器を生成することでしょうか。

僕の場合だと、相手の悪いところを見るとなんだかおもしろくなっちゃうのでいいのかな?

こんなことをいうのも、またすぐに、数人での食事会的なことが行われるからなのです。

どんな感じでいようかな。無口でミステリアスな感じに思ってもらうのもいいなぁ。

ミステリアスと何も考えていないのは全然違いますがね(笑)。

ずーっと数学のことをやっていると、何か食べるときぐらいは無心でいたく思ってしまうものです。

そうでもしないと、脳みそがオーバーヒートしちゃいますよ。

その結果、あぁ、とか、うん、しか言わないツマラナイ人間になってしまうのですよね。

面白いと思われるのはいいことだと思うのですが、実際、そんなことができたら人生の6割は成功しているようなもんでしょう。

コミュ障、ボッチなどという言葉がありますが、ああいうのもアイデンティティですから、それをゲットしてる君は、困ることはないぞ(きっと)。

そんなこんなで、数学以外のことはただ何となくやってきている人間ですが、頑張っていこうと思います。

周期3の三日坊主は勤勉ですからね。