とある数学徒のひとりごと

ゆるく, しかし粘り強い思考を求めて

分からないから示すのだ

今日は、久しぶりにスーツを着ました。

手先が不器用なもので、ボタンを閉めるのに一苦労でした。特に、襟についている小さいボタンなんか、地獄のように付けづらいです。こりゃ、マジシャンにはなれないな。

スーツを着るときは毎回、奥さんが欲しいなと思っちゃいます。

ネクタイのずれとか、ジャケットのゆがみとかを直してくれるのは憧れです。

そんな中、新生活が始まり、結構慣れてきました。

一番の変化は、朝にちゃんと起きれるようになったことですね。

もう学部生ではなく院生なので、体の調子を整えつつ数学をしていくようにしていかなければなりません。

学部生のころは体を壊しても数学をしていいんじゃないか?と思ったりしたものですが、院生になると、もっと過酷な数学をするわけですから、肉体的な健康は完璧にしとかないと太刀打ちできません。

先輩もランニングをしたりしているので、僕も始めようかな...?

色々と模索をしながら数学をしているのですが、一つ気になることがありました。

家で数学をしているとき、大体独り言を言うのですが、証明をするときに、これはわからないので示します、って言ってたんですよね(僕が)。

一回、ゼミかなんかでこれを言ってしまって、教授から厳しめの言葉をいただいたときに、いや、これを示すんですよぉ...と言って変な空気になってからは使ってないと思ったんですけどね。

しかしながら、この独り言は生きていく上で必要だなぁって感じます。

正直なところ、この世界のことなんて何も知らないわけですから、理論的には出会うものすべてがわからないんですよね。

でも、そのままにしとくのでは何もできないので、とりあえず向き合ってみる。

この向き合うという行動のために「わからないから示します」というスタンスはいいきっかけになるんじゃないかなと思います。

小・中・高と問題の典型例を身に付け、パターン問題は数分で解く、そうでない問題は部分点を取ればいいからここまでしかやらなくていいなどということをずーっとやってきていたので、「わからない」ということに非常に憶病になってしまっています。

これはやっぱりよくないことです。

パターン化されているものは素早く処理するのは当たり前なのですが、それさえすれば合格できるなどという(有名な有害ドラマ)ことがささやかれ続けているせいで、わからない→やばい!→どうしようもない... という思考になってしまい、「考える」が生まれてこない気がします。

高校数学とかですと、網羅系参考書(青チャートとか)をとりあえず暗記するまでやれば東大でも受かる!というのは学校でよく言われてました。(化学だと重要問題集とか。これなんか3周すれば、東大化学は楽勝といわれました。まぁ、僕は3割くらいでしたがね...不合格なのでなんとも...)こういうのが、大学や研究とかでの障害になっているんじゃないんだろうか?

パターン問題を身に付けすぎると「わからない」が恐怖につながってしまう可能性があると思います。実際、僕の応用力の無さもありますが、入試で分からない問題があったらそこから頭をひねって考えるということができず、ただただパニックになっていました。

共通テストとか私大の問題だと典型問題が多いからいいんですけどね、2次試験となると...

わからん!、知らん!→どうすっかな?→わからんけどやるかぁ...→まあこんなもんか

という体験をさせないと、これから身に付けていかないといけないとされる学力は身につかないんでしょうけどね。

日本は国民性から難しそうな気はしますが。

高校まで数学が好きで数学科に入った人で数学が嫌いになる一因としてはこのような真面目さ、恐怖があるんじゃないでしょうか?

分からないことは恥ずかしいことじゃないなどという前に、わからないものは考えるものだという習慣を身に付けさせる方が重要だとは思いますがね。(そうしないと、とりあえず聞いてその場だけ済ましてしまいがちになりそう)

ヒルベルト加群の例でベクトル束が急に出てきて微分幾何学をそこまで理解していない中でいろいろと調べたりしながら思いました。

さてと、ベクトル束と向き合うか。わからないから示さなきゃ。