とある数学徒のひとりごと

ゆるく, しかし粘り強い思考を求めて

運がないなら仕方ない

昨日、とりあえず1週間は毎日何か書こうといったので、書いてみようと思います。

最近思うのが、僕はここぞという時の二択で、大体希望していないことになるような気がします、今のところ。

大学2年生くらいまでは、運がないなぁ、とか、頑張りが足りないのかなぁ、とか思っていましたが、最近になってなんだかいい意味であきらめがつくようになりました。

結局、1番になるということはほとんどの人間にとっては無理なことなのだと思ってしまうと、なんだか、ツキがないときも、こんなもんでしょと思いなおすことができます(厄年だからっていうのもある。この概念はとても素晴らしいなぁ)。

数学でも、研究室のほかのメンバーは、結構進んだ内容をやったり、先輩と一緒にやったりと僕よりも先を歩いている人ばかりです。

自分はというと、やりたいと思ったことを相談すると、それはあまり良くないなぁといわれ、しかし、こちら(教授)の方からは何かやりたまえとは言わないから、自分で興味あるものを見つけなさいと言われています。

どういうこと?!と思いました。ほかの人たちは何かしら指針が示されているのにどういうこった?と。

まあ、大学院ですから、むしろ指針を与えられる方が珍しいですね。

ふと、大学院選びの時に面談をしてもらった某大学の教授の言葉が頭をよぎりました。

その教授からは、どこの院に行っても一緒だし、なんなら、どういうテーマをやったらいいかを聞いているようでは数学者はやめた方がいいと言われました。

その方は、かなーり有名で(僕のいる分野の中でだけかもしれませんが。)とても特徴的な教授です。

やることも天才的で、いわゆる数学者という感じです。

僕はそんな優秀な学者にはなれないだろうけれど、面白そうなことをやるのは楽しそうですよね。

群の作用はとても単純で、数学ではアタリマエに使われます。それがゆえにいろいろと分野が派生しているので、まずはこれと決めなければ始まりません。

僕がこれと思ったものには、とてつもなく長い道のりが必要なようです。

何かしら折衷案を見つけないと、スーパーコンピューターでもなければ1年で出来るようにはならないぞ。(ノイマンになればいいのか...)

なぜ、そんなことに興味を持ったのかと親戚などからは言われますが、そこに明確な理由はないのですよね。

たぶん、そこが今の指導教員が困ってしまった理由なんだと思います。なぜ興味を持ったのかがわからないということ。

どうしてなのでしょうかね。なんか、そこで展開される理論や、そもそもの作用させるという語感や操作が魅力的に感じてしまうのです。

そんなことでテーマを決められるわけはないのですが、この直観のような何かだけで今まで、少なくとも4年間は大学で数学をしてきたのですから、僕個人の原動力としては十分でしょう。

初めから運はないのです。何したって嫌なことになるなら、自分が楽しそうだなということに突っ込んでみたほうがなんとなくよくないですか?

幸いにも、今年は厄年です。嫌なことは全部こいつのせいにしちゃいましょう。