張り合わせと心
僕は数学を専門に研究している。(ここで申請者などと始めるといい職業病だ。)
最近は幾何学をしているのであるが、うまい張り合わせというものがどうも考えられないでいる。
これもだめだ、あれもだめだと考えているうちに、心がどこか遠くに行ってしまう。
数学の研究だからこそ自由に戻ってこれるのだけれど、これって人の心だったらたいていの場合戻ってこないよなぁと感じた。
なにぶん、ほとんどの時間を一緒に暮らしていない他人に対して気持ちを寄り添ったり、逆に何か完全に助けてもらおうと考えること自体がなかなか厳しいことなのではなかろうか。
図形の層は張り合わせられても、心の層は張り合わせられなさそう。
まるで粘着力の失ったポストイットのように。
キモチの良いくらいの薄情さの中でここ数年生きてきたけれど、やはり人間関係は粘着しない方がやりやすい。(研究には粘着性が必要不可欠ですが。)
冬の到来と知人たちの失恋報告が重なる中、ふと思ったことでした。
忘却と10年後
今日は、ふと10年後の自分の置かれるであろう状況が恐ろしくなった。
60才近くなると、人間は自身のできると思うことと実際にできることのずれに極度にイラついてしまうらしい。
僕はそれでご飯まみれになってしまった。
箸を落としたり、ものを倒したりすることがそんなにイラつくことなのだろうか?
まだ20代の僕は、ものを滑らしたりなどよくあることなのでもう慣れているのだが、普通に生活ができてきた人間はそうはいかないらしい。
そのイライラに周りはどう向き合うべきなのか?
一貫して他者の立場をとる日もそう遠くはないのかもしれない。
しかし、日々の数学の研究や勉強で分からないことだらけなので、簡単にはイラつかない人間になったのはいいことだと思った。
というよりも、そのほかのことについてあまりにも無関心なのかもしれない。
無関心ゆえの諦めからくるような許容。
それはヒトとしてどうなのかと疑問には思う。
でもまあ、いきなり派手に暴れまくるよりはいいんじゃないかな。
10年後くらいには僕はそのような事態に真っ向から立ち会っていかねばならないことになる。
さすがに放置もできないので。
どうしたものか。
先に僕がどんどん忘れていくのもいいかもしれないけれど、忘れるものがあるほど人生充実してないしなぁ。
体くらいは鍛えておこうと思った。いざという時に死なないために。
明日になれば、彼のキャンバスは真っ白になっているんっだろう。
周りの棚や床は鮮明に汚れているというのに。
そくどろんの日
嫌なことがある日って、とりあえずその場から離れたくなりますよね。
今日は予想よりも全然マシな日だったのでそうはなりませんでしたが。
最近よく言われるのが、焦らずじっくりやれということです。
最近とはいっても、ここ10年くらいずっと言われているような気がしますが...
とりあえず、何かできなくなってしまったときにそこで立ち止まってできるまで粘れということなのでしょうが、そう上手くはいきません。
なんとなく乗り切って、形にできるようにはしたつもりでも、やはり端から見ればダメなようです。
ずーっと基礎がなってないといわれるともう何をどうしたものか...
逃げ出したい気持ちもありますが、それは逃げる先がある人のみができる高尚なことで、僕にはなかなかできないようです。
優秀だったら話は別なのだろうけれど、人よりうまく物事を運べないようです。
とりあえず気になっていることをやりつつ、測度論の復習でもしようと思います、
即、ドロンしないようにしたいところです。
悲しみを乗り越えて
1か月前くらいからツバメが来ています。(いました。)
家を出るときなどになんとなく眺めているのが楽しかったのですが、ここ数日でなぜかツバメのパートナーがいなくなってしまったようなんですよね。
彼(彼女?)は一匹になってもいろいろと頑張っているのを見て、少しだけ自分の姿を重ねてしまい、つい情がこもってしまいます。
しかし、今日その一匹のツバメが別のつがいのツバメに追い払われていました。
その一部始終を見ていたのですが、とても悔しかったです。
自然の摂理だから仕方ないし、僕がそこに茶々を入れることなどはあってはならないのですが、やはりこういうものなのかと...
人間社会もここまで露骨ではないと思いますが、そのような雰囲気はありますよね。
恋人や配偶者がいない人に対しては、何となしに冷たい態度を取ったりしているような人がいるような気がします。
学部1年生の頃はそのようなことを結構はっきりと受けていたので、なおさらあのツバメ君のことが気にかかります。
カモメのジョナサンのように飛ぶ速さにだけ没頭したりするのでしょうか?
そうなると僕の場合は数学に没頭するという感じなんですかね?
あのツバメの行方は分からなくなってしまいましたが、どこかで頑張って飛んでいると信じて僕も終わることのないゼミの準備を進めていきます...
石ころさえも見れなくて
もうこの十数年歩いていて石を蹴ったりしたことがない。
小学生の頃は、石をボールの代わりにして遊びながら帰ったりしていたのに。
たまに見かけたとしても、それは大きめの砂利だったり、庭に入れる用のきれいな丸い石だったりと、以前のような自然に転がってそうなものはなくなっている気がします。
なんだか少しづつ思いがけない出会いというものがなくなっているようで、少し不安を感じます、ただの石ころなのに。
何をやるにも、きれいに整ったものからやって、そのゴールに達することでやっと、次に新しいことができる。
研究とはそのようなことの積み重ねではあるのですが、最近はもうゴールもわからず、目の前のことばかりに気を取られてやっています。
なにか気分転換に面白いことが転がっていないかと思っても、日本の高速道路のようにきれいに整ってしまっていて、なにも落ちてない。
石ころがなければ、もちろん小銭も落ちてない。
観察眼が足りないのかもしれませんが、なかなか手に取ることができません。
小さい頃は、小さな石ころを磨いたり、飾ったりして楽しめていたのに、今では、おおきな宝石があったとしても、さも知っていますというような顔をしなければならないような感じ。
小さな感動が周りからは当たり前のこと過ぎて共感されず小さくなる日々。
小学2年生の夏に一生懸命磨いた庭の石を、もう一度眺めてみたいものです。
ドーナツの穴よ、何処へ
数日前、ドーナツを食べていた時にふと、この穴はどうして空いてるんだろうか?という疑問が頭をよぎり、次の瞬間、揚げるときに熱を通しやすくするためだという正解っぽい結論が出てしまい少し寂しくなってしまいました。
指でくるくる回すためだとか、お菓子の車を作るときに車輪にするためだとか、そういった面白味のあることが考えられなくなっているような気がしてなりません。
日々の生活をしていくために、楽しいことを犠牲にするというのは仕方なく、それゆえの感受性の欠乏なのかもしれません。
そう思うと、子供の時によく言われた「好きなことをしなさい」は果たしていいことなのでしょうか?(そもそも命令形なのが面白おかしいところではありますが(笑))
院に進むと、友人たちからは、好きなことができていいなぁといわれますが、実際のところ、研究で好きなことができるということはあまりないと思います。
結局のところ、ある程度形になるようなテーマを選んでいかねばならず、そこと自分の興味との折り合いをつけていくのですから。
なんともよくわからない。
最近、文章がうまく書けなくなってきました。
どうしたものでしょうか...
こころの大円、交わるか?
今日、米津玄師さんの『vivi』を聴いてたら、ふと思ったことがありました。
「さよならだけが僕らの愛だ」ってなんだ?
さよならというのだから、2人の間の距離が離れていくのは確かなのですが、ずーっと離れていくとどうなるんだ?
仮に、二人ともが自分の進むべき道をまっすぐに進んでいったとしたら、地球は3次元多様体ですから、2つの大円(測地線)は交わるはずです。
となると、結局2人はまたどこかで会うことになるんですかね。
もし、また会ったときに元の関係に戻れないとなると、「こころ」は少なくとも地球のように球体ではなさそうです。(円でもなさそう、測地線が交わらないなら直線とか?幾何学は専門ではないのでテキトーなこと言ってますが。)
とまあ、こんなことをふと思ってしまいました。
数学的な冗談は抜きにして、それでもやっぱり不思議です。
『銀河鉄道999』の歌詞にも、
「わかれも愛のひとつだと」
という歌詞があります。
お互いのために別れる、これが愛なんだ。ということなのでしょうか。
お互いのためとは?
何かしら超越的なものを感じますね。考えてもわからないようなもののような気がします。
僕はまだ、そのような経験がないのでわかりません。
「愛している」と言いながら離れ離れになるというのはどういうことなのか。
自分の子供を養子やほかの場所にやってしまって、自分のところから離してしまう時には、そういうことがあると思うのですが、若い男女の間ではそのような事態は起こるのかな?
誰かに聞いてみたいけれど、聞く人がいないなぁ。
きっと、誰かと別れないとわからないものなのでしょうね。僕にはまだまだだ。(まだ相手がいない...)
誰かが好きになってくれている、もしかしたらそれだけで十分なのかもしれませんね。